「生」と向き合うタイポグラフィ

「陰翳明朝體」開発者・伊藤親雄インタビュー

「Tokyo TDC 2015」において、書体「陰翳明朝體」のデザインでTDC賞を受賞した伊藤親雄さん。「生と向き合うタイポグラフィ」をテーマに、「生きづらさを感じている人々へ届ける書体」としてつくられたこの書体の制作意図や、明朝体の魅力、日本文化との関係性などについて、普段はフォントメーカー「字游工房」の書体デザイナーとして働かれている伊藤さんに話を聞きました。
Text: 原田優輝

心に寄り添う書体「陰翳明朝體」

ー今回TDC賞を受賞された書体「陰翳明朝體」をつくることになった経緯を教えて下さい。

この書体は、個人的な制作としてつくったもので、現段階では試作という位置づけなのですが、大きなきっかけのひとつになったのは、2011年の東日本大震災です。その時に感じたことが直接ではないですが、今回の書体を生み出す背景になっています。震災は、日本人の幸せや生きることの意味、価値観などが変えられた転機だったと思うんですが、自分自身も、圧倒的な自然災害を前にして、人としてはもちろんですが、書体をつくるという仕事がまったく無意味に思えてしまいました。それまでは書体に魅了され、仕事にやりがいを感じていたのですが、あまりにも悲惨な現実を前に、まったくものをつくる気になれなかったんです。たしかに書体は、震災のニュースや情報をメディアで伝える役割は果たしていましたが、精神的な部分で大きなものが欠落しているような気がしていました。情報を伝えるということ以上の意義や目的がほしいと痛切に感じ、このような切実で深刻な場面にしっかり対峙できるものづくりがしたいという思いが強くなりました。たかが書体ではありますが、あの時自分が覚えた無力感に少しでも応えたいという思いが頭の片隅にずっとあり、それが今回の書体を制作するひとつのきっかけになっています。

陰翳明朝體

ー「陰翳明朝體」の開発にあたり、どんな書体をつくろうと考えたのですか?

これまで書体というのは、歴史や機能にフォーカスされることが多く、精神的な部分が語られることは少なかったように感じています。ですので、今回はそこにスポットを当てようと思い、特に生きづらさを感じているような、どちらかというと弱い立場の人に寄り添うような書体を目指しました。生きづらさや苦しみというのは、時代を越えて人々が体験してきた普遍的な感覚でもあるので、多かれ少なかれ誰の中にも存在するものですし、そういう意味では、多くの人に共有して頂ける書体ではないかと思っています。

ー具体的にはどんな用途に適した書体なのですか?

「陰翳明朝體」は、主に生きることの苦悩や挫折、孤独などといったテーマを扱った文学作品を組むことを標榜しています。本を読んでいて救われた経験というのは誰もが少なからず持っていると思うのですが、そんな読んでいて救われるような、心に寄り添う明朝体がつくりたいと考えました。まったく時代が異なる著者と考えや感じ方を共有できた時の喜びや感動というのは、本ならではの魅力です。自分が抱えている悩みや苦しみは、ずっと昔から人々が感じてきた普遍的なもので、それを分かち合うことで自分は一人ではないんだと気付き、とても救われた気持ちになるという経験が自分にもあります。本を読むということは孤独な行為に思えますが、実は著者と対話する、繋がる行為であって、少し大げさかもしれませんが、本やタイポグラフィには、人を救う力があると考えています。

陰翳明朝體

ー「陰翳明朝體」のデザインにおけるポイントや特徴について教えて下さい。

書体のスタイルは王道的なクラシックな明朝体で、縦組の本文を組むために最適化されています。漢字は漢字らしく硬質で大きめに、逆に仮名は仮名らしく柔らかく小振りに設計されています。漢字について具体的に言うと、エレメントはシャープで少し強くはっきりと、フトコロは狭くスマートに、そしてハライは長めで伸びやかな印象になっています。すべて正方形の中に同じ大きさに整えていくというよりは、なるべく一文字一文字の特徴を出しています。仮名についてはゆっくりとりた運筆が特徴で、少し癖を感じさせています。こちらも個々の文字らしくなるように、縦長の文字は細長く、扁平の文字は平べったく、大きい文字は大きく、小さい文字は小さくしています。太さについては本文書体としては少し太くつくられていて、線切れがなく黒みがあって安定感があります。金属活字の頃の印刷物はいまと違ってインクの印圧で少し太めに印刷されていて、それがアジになっていて心地良いなと感じていましたので、少し太めに設計しています。

陰翳明朝體

日本文化の発展とともに歩んできた明朝体

ー伊藤さんにとって明朝体の魅力とは何ですか?

明朝体のどこに惹かれたのかは自分でもよく分かりませんが、いまとなっては取り憑かれたようになっていて、おそらくそれは、私が日本人だからだと思います。日本の基本書体である明朝体というのは、おそらく日本人のDNAに刻み込まれているのではないでしょうか。心の故郷というか原風景という感じがします。明朝体はもともと中国から輸入されてきたものですが、日本文化は明朝体というツールを通して発展してきました。活字を通して人は知恵や知識を共有し、広めてきましたし、特に文学はその典型で、活字がなければ成立しない分野だったのだと思います。

ー特に印象に残っていたり、思い入れの強い明朝体というのはありますか?

字游工房の初代社長である故・鈴木勉さんの追悼本で、『鈴木勉の本』という本があるのですが、これを読んだことが、字游工房に入りたいと思うきっかけになりました。鈴木さんは、若くから大成された書体デザイナーで、写植機の大手メーカーである写研から独立して字游工房を立ち上げられました。そして現在Apple製品にバンドルされている「ヒラギノ」シリーズを開発された後に、自社のオリジナルブランドとなる「游明朝体」の開発に着手され、開発半ばで惜しむらくも亡くなられました。その後、游明朝体の開発は、鈴木さんの書き残した原字を元に鳥海など社員が引き継ぎ、そして初めて使われたのがこの『鈴木勉の本』です。そこには鈴木さんの想いや、それを引き継ぐ人たちの想いが綴られていて、胸の奥がとても熱くなります。そして、なによりもこの游明朝体が美しいのです。ここまで清流のような透明感のある書体はかつて知りませんでした。游明朝体は、いまでは日本のスタンダードといえる存在になっていますし、いつか自分もそういう書体をつくってみたいと思わせてくれるような本です。

陰翳明朝體

ー時代やメディア環境が変わる中、明朝体のあり方が変わってきていると感じることはありますか?

時代やメディアは目まぐるしく変化し、もの凄いスピードで更新されていますが、明朝体の変化はそれよりもずっとゆっくりしていると思います。私が書体デザイナーを志したひとつの理由として、ゆっくりした時間の中で腰を据えたものづくりがしたいという思いがありました。私たちが現在目にしている主な明朝体は数十年前につくられたものですし、良いものをつくれば長く残るし、やりがいもあります。タイポグラフィは常に技術と隣り合わせで、時代に順応していくことはとても重要ですが、基本となる造形や思いは、あまり変わらないように感じています。

書体をデザインするということ

ー普段のお仕事ではどんなことを心がけていらっしゃいますか?

大きなテーマとして掲げているのは、伝統的な技芸を継承していくことです。私は、書体デザインには、職人的な要素が大きいと感じています。特にこれは明朝体やゴシック体などベーシックな書体の話ですが、新しいものやオリジナリティあるものをつくることよりも、伝統的な技術を学び、より品質の高い書体を生み出すということの連続によって発展してきた歴史があります。その技術や能力は一朝一夕で得られるものではなく、やはりそれなりの時間をかけて獲得していく必要があると考えています。ですので、そうしたものを少しでも多く学び、次の時代をつくっていけるような書体を生み出せるようになりたいと思っています。

ー伊藤さんにとって書体デザインとは何ですか?

「当たり前」をデザインするということです。書体というのは、誰がデザインしているのかということはあまり意識されるものではありません。でも、普段生活していて当たり前のように目にしている文字というのは、それがなければ生活が成り立たないほどかけがえのない存在ですし、それをデザインすることは黒子のような素敵な仕事だと感じています。特に震災以降は、当たり前のものが当たり前にある幸せが見直されるようになりました。毎日食べるご飯があって、帰って寝る家があって、家族や友人がいて、本が読める。なんの変哲もないささいな行為ですが、その行為の質を少しでも高めていきたいと思っています。

陰翳明朝體

ー最後に、現在取り組んでいる仕事や、今後つくってみたい書体などについて教えて下さい。

現在は、凸版印刷株式会社の専用書体をつくるプロジェクトに携わっています。欧米の企業ではコーポレートフォントをつくることは一般的ですが、日本の企業ではあまりないので貴重な経験になっています。3、4年の間に5書体をリリースする予定で、第1弾の「凸版文久明朝R」はすでにリリースされています。昔から凸版印刷が保有していた明朝体を改刻した書体で、無骨な中にも可愛らしさや愛嬌のある独特で魅力的な書体です。雑誌『文藝春秋』はこの書体で組まれているので、ぜひ見て頂きたいです。今後つくってみたい書体は、個人的なスキルアップを考えるのであれば、筆書系の書体です。ベーシックな書体に関しては、「陰翳明朝體」などでもある程度やり切れた感覚があるので、今後は何か新しいことにチャレンジしていきたいです。自分のデザインの幅をできるだけ広げ、色んな仕事に対応できる適応力を高めていきたいと考えています。

凸版文久体 (C) Toppan Printing Co., Ltd.

TYPE Q&A

Q. あなたの好きなフォントBEST3は?
A. 活字が好きですが、デジタルフォントで挙げるとやはり自社書体がメインになってしまいます。
Q. "タイポ買い"したプロダクトはありますか?
A. 本で一番高価だったものは「聚珍録」です。5万円ぐらいです。
Q. 自分をフォントに例えると?
A. 陰翳明朝體です。
Q. もし遺書を書くとしたら、どんなフォントを使いたい?
A. 残す財産があればの話ですが、直筆で書きます。
Q. あなたにとってタイポグラフィとは?
A. 最近わからなくなりましたので、またゆっくり見つけていきます。

伊藤親雄

書体デザイナー。1982年生まれ。多摩美術大学卒業後、株式会社モトヤを経て、有限会社字游工房在籍。歴史を背景にしたベーシックな書体を中心に活動。時代をこえるスタンダードをテーマにした「にほんの明朝体」で日本タイポグラフィ年鑑ベストワーク賞。生と向き合うタイポグラフィを主題にした「陰翳明朝體」で東京TDC賞、NewYork TDC賞、モリサワタイプデザインコンペティション銀賞を受賞。